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始まりの1日

 抱えていた段ボールを臣が床に下ろすと、その振動がずんと足裏に伝わってきた。軽そうに持ち上げていたが、中身は結構ぎっしりと詰め込まれているのかもしれない。
「よしっ、これで最後かな」
 臣が腰に手を当てて息を吐くと、隣に立っていた十座が首にかけたタオルで額の汗を拭きながら「そっすね」と小さく相槌を打った。
 まだがらんとした部屋の隅には、大きさの様々な段ボールが積み上げられており、その側面にはそれぞれ「衣類」「ゲーム」など、中に入っているであろうものがマジック書きされている。外に停めてある車から一時間弱かけて運び込んだものだ。
「伏見さんも十座も、せっかくの休みにありがとうございます」
 綴は二人に向かって深々と頭を下げた。運んだ荷物はここにあるだけではなく、他の部屋にも幾つかある。さすがに自分一人ではこんなに早く作業を終えることはできなかっただろうし、これだけの荷物を引越し業者に頼めば値段は軽く万を超える作業だ。
「いやいや、これくらいどうってことないよ。仕事でいつも重い機材も運んでるし」
「そうっす。それに俺は、綴さんには大学でもお世話になったんで」
 十座が真顔で言うものだから、その義理堅さに笑ってしまいそうになる。
 綴には、大学という言葉の響きが、懐かしく感じられる。綴も臣も十座も、同じ葉星大学の卒業生だ。臣は綴の二つ上、十座は綴の一つ下の後輩にあたる。カメラマンとしてMANKAIカンパニーに協力してもらう以前から臣には履修科目を相談をしたりしていたし、逆に十座には使わなくなった教科書をあげたりしていた。そんな十座が大学を卒業したのは数年前だ。自分が葉星大学に在籍していたのが遠い過去のように思える。

 この夏、綴と至はMANKAIカンパニーの寮を出て、二人暮らしを始めた。この春、劇団員の増員によって、寮が手狭になったからだ。
 今や毎公演が満席御礼、チケットの入手は困難となっているMANKAIカンパニーは、芝居をする者にとっても憧れの舞台となり、年々と入団希望者が増えてきた。自分たちが入団した時は劇団員数五名、それも人数合わせのために集められた素人ばかりだったのに、今となってはオーディションで入団できる倍率は天鵞絨町にある劇団の中でも随一だ。
 そして、増員によって、カンパニー専用寮の部屋が満室となってしまったのだ。さすがに増築というわけにもいかないし、既に二人で使用している一部屋に三人以上詰め込むのも厳しい。そこで、元から寮で暮らしていた何名かが部屋の明け渡しに名乗りを上げた。増築、三人部屋、引越しの中では一番現実的な提案であったと思われる。
「俺も、ここを出ようかなって思ってるんですよ」
 寮の至の部屋のソファで、綴はノートパソコンに文字を打ち込みながら言った。書いているのは次の舞台の脚本だ。本来、至と同室なのは千景だが部屋を留守にしていることが多く、そういう時は至の部屋に入り浸って脚本を書くことも多かった。
 隣に座る至が、横持ちしたスマホの画面を指でタップしながら「へぇ」と間抜けな声を出しただけだった。やっているタイトルは年々変遷しつつも相変わらず至はゲーム三昧だ。
「新しく入ってきたやつらに、寮の部屋を譲ってやったほうがいいかなって。俺も入った時、寮の恩恵を受けられて有難かったし、新入団員も寮のほうが稽古する時間もいっぱい取れるだろうし」
 自分が初めてカンパニーの寮に入った時のことを思い出す。たった五人の劇団員には大きすぎる劇団専用寮。十人兄弟の家族で育った自分にとっては広すぎるほどの自分の部屋。同室の真澄との喧嘩。それから至が辞めると言い出したのを全員で引き留めて、春組の公演が成功して、みんなが春組に残って、新たに夏組、秋組、冬組が入ってきて。一年後には寮のどこに行っても人の気配を感じられるようになった。あの頃は当然だけれど、自分がここから旅立つ時のことなんて考えてもいなかった。離れることに寂しさを感じないわけではない。
「引越し先とかは決まってんの」
 ゲームはしたままだが、返事が返ってきたことで今の自分の話をちゃんと聞いていたんだと少しだけ安心する。綴は一度ノートパソコンを閉じると、ソファの背もたれに身体を預けた。
「それなんすよね。結局、ここに通うから遠く離れる必要はないし、かといってここらへんだとちょっと家賃高いし、一人暮らしだとやっぱ家賃嵩むから……」
 それが現時点での課題だった。部屋を譲りたい気持ちは大いにあるが、自分の生活も考えなければならない。最悪、実家に戻る手もあるが、どうせなら一人暮らしの経験も積んでおきたい。
 何気なく至のほうを見ると、至はふと掲げていたスマホを下ろして、こちらを見つめた。
「じゃあ、俺と二人で暮らそうよ、綴」
 もっと冗談っぽく、スマホを見ながら言ったなら、綴はすぐに突っ込みを入れてはぐらかしただろう。けれど、その目があまりに真剣に見つめるものだから、綴は目を逸らすことができなかった。
 考えもしなかった。そうか、二人で暮らすという選択肢があるのか。二人なら家賃は折半できるし、なにより今よりも人目を気にせずに触れ合える。そんな簡単なこと、何故思いつかなかったのか。
 何より、至が自分と二人で暮らすことを考えてくれたのが嬉しかった。付き合っているとはいえ、至はどちらかというと、誰かに合わせて暮らす、というのが苦手なのだと思っていた。入寮した時だって、一人部屋なら、という条件で入ったのだから。そんな至が、二人で暮らすことを提案してくれるなんて。
 ……いや、待てよ。
 綴は輝かせかけた目で至を睨んだ。
「……至さん……」
「ん?」
「……本当は一人暮らししたいけど、洗濯とか掃除とかは面倒だからって全部俺にやらせるつもりじゃないでしょうね……」
 睨むと、至は下ろしていたスマホをまた持ち上げ、
「バレたか」
 と呟きながら、またゲームを始めた。
 綴はため息をつく。なんだよ、結局冗談なのか。そう思った時、ふと至の耳が目に入る。触れたら火傷しそうなくらい、真っ赤に染まった耳。おかしくて、綴は吹き出しそうになるのを堪える。この人は本当に正直じゃない。
「……いーですよ。全部はやらないですけど、交代制でやりましょ。それならいいですよ」
 至は「えー」と不満げな声を上げた。「えーじゃないです」と嗜める。
 こうして、少し素直じゃない恋人との同棲生活が決定したのだ。

 それから三ヶ月、部屋を譲ることを監督やみんなと相談し、内見などを済ませ、今日に至る。駅から歩いて十分、築二十六年、リフォーム済み、アパートの二階、2LDK。今日からここが新たな巣だ。
「なんだか寂しくなるな」
 臣が、まだカーテンの取り付けられていない窓の向こうを見ながら、小さく呟いた。窓の向こうには、まだ見慣れない街並み。そこに広がっているのは、天鵞絨町の景色ではないのだ。
「……って、やめてくださいよ伏見さん。その言い方だと俺、退団しちゃうみたいじゃないですか!」
「はは、悪い悪い」
 慌てて突っ込むと、臣はいつものように大らかに目を細めて笑った。臣は歳を重ねるごとに、貫禄が増していく。カメラの技術も料理の腕も、プロに劣らないほどだ。
「でもなぁ、綴のチャーハンを楽しみにしてたやつも結構多いだろ」
 臣がそう言うと、隣の十座が頷いた。
 十座は大学中にまだ少し身長が伸びたらしい。「これ以上伸びんな」と理不尽な理由で万里が喧嘩をふっかけていたのは鮮明に覚えている。十座は演技力も伸びて、その長い手足から繰り出される殺陣やアクロバットはストーリーを盛り上げる一役になっている。
「俺、綴さんの豚キムチチャーハン、好きだったっす」
「な。あれ美味いよな」
 基本的に料理担当は臣だったが、時折綴も団員の食事を作った。臣みたいに凝った料理は得意ではないが、十人兄弟の腹を満たせるコストパフォーマンスの良い料理が得意だった。豚キムチチャーハンもその一つだ。
「チャーハンくらい、いつでも作りますよ」
 褒められたのが恥ずかしくて、鼻の頭を指で擦った、その時だった。玄関から音がした。
「いやー、本当助かったよ」
 そう言いながら、至は部屋に入ってきた。どうやら、荷物の運搬に使った車を近くの駐車場に停めて戻ってきたらしい。当然だが、部屋への搬入に携わってない至は汗一つかいていない。
「いや、至さんほぼ何にもしてねーし……」
「いやいやここまで運転してきたから」
「運んだ荷物、ほとんど至さんのでしょ!」
「この貧弱たるちに荷物運ばせたら明日どうなるか分かってるだろ」
 至は何故か自慢げに胸を張る。呆れるが、実際にこの人が運搬の力になるかと言ったら微妙なところだ。
 今、綴たちのいる部屋は至の部屋になる予定だ。要するに、ここに積まれている段ボールの中身は全て至のもので、その数は綴のものより軽く三倍以上はある。さすがにソファなどは持ってこなかったが、恐らく荷ほどきすれば寮の至の部屋が完全再現されるのではないかと思うほどだ。
 最初は引越しを手伝ってもらうのも躊躇ったが、今となっては協力してくれた二人に感謝だ。そうでなければ、この量の荷物を一人で運び入れなければならなかった。
「にしても、予定よりかなり早めに終わったな」
「ッスね」
 臣がスマホで時間を確認する。綴もつられてスマホを見ると、まだ午後三時半過ぎだ。予定よりも一時間半ほど早く終わったことになる。多めに見積もっていたとはいえ、かなり時間に余裕ができた。
「そうだ、どうせだからゲームしてかない? 入居祝いにさ。コントローラーも四つあるし」
 寮に居た頃も、何度か至の部屋に何人か集まってゲームをしたことがある。
「いや、でもまだテレビも出してないし、配線とかもまだ……」
 積み上げられた段ボールに目をやって、あることに思い至ると綴は慌てて言った。
「あ、至さんダメですよ! さすがに配線までやらせようなんて……」
「チッ、バレたか」
 至を鋭く睨みつけると、その間を臣が割って入った。
「はは、いいよ綴。すぐ帰るのも寂しいし。組み立てるものとかの作業もやろうか?」
「や、そこまでしてもらわなくても……」
 語尾が弱まってしまったのは、ここで手伝ってもらわなかった場合、すべてを自分にやらされる可能性を頭がよぎったからだ。
「……お願いしていいですか」
「よし。十座はどうする?」
「俺も手伝います」
 そうして二人は、積み上げられた段ボールの中から「モニター」と書かれたものを開け、一緒に入っていたコード類をモニターに繋ぎ始めた。臣が指示し、十座と綴が言われた通りに繋いでいくと、あっという間にモニターが映るようになった。正直、どれが何のコードか全く分からなかったので、手伝ってもらって正解だったと胸を撫で下ろした。
 それから、綴と至、臣と十座に分かれて、それぞれの部屋にベッドを一つずつ組み立てた。寮はロフトベッドだったため、新しいものを買った。さすがに寝る場所がないと困るので、家電やなにやらよりも先に購入していた。
 ちょこちょこ休憩を挟む至に呆れつつも、確かに重労働だとかんじた。板を二箇所同時に嵌め込まなければならないところではなかなか上手くいかず、冷房をつけていても汗が滲んできた。ひいひい言いながらベッドの枠組みがやっと完成したところで、隣の部屋の二人があっさりと作業を終えたらしく、結局こちらのベッドも手伝ってもらうことになった。
 さながら業者のような鮮やかな手際で、ベッドは完成した。とりあえず今晩の寝床が確保され、安心する。至はというと、一番作業量が少なかった割に、最後のほうはほとんど床に溶けているだけだった。
「一応この中で最年長だからね、労って」
 高速で体力を消費しきった至が、床から三人を見上げながら言った。労るもなにも、作業配分的には十分労っているつもりだが、そのうち寝転がりながらスマホでゲームをし始めたので、その尻を踏んづけてやった。
 頼めることを頼めるだけ頼んだあと、「夕飯の支度があるから」と二人は帰宅した。今日のお礼に今度飯を奢る、またゲームしに遊びに来る、という約束をして、二人を寮まで車で送った。今まで同じ寮に暮らしていたから、別々の場所に帰るというのが不思議だった。
 新居と天鵞絨町そう遠くはないが、普段使う道ではないのでなんだか全く知らない町に旅行に来ている気分だった。住宅街、古いクリーニング屋、小さな商店街、お洒落そうな店。少し緩めたスピードでそれらを追い越していく。運転席に座る至の隣で、なんだかんだ免許は必要だなぁ、などと思った。
 まだ家には調理器具も冷蔵庫もないので、帰りに牛丼屋に寄って夕飯を食べた。綴は季節限定の牛タン定食を頼んだが、至は疲れ切ったらしく、牛丼の小を頼んでご飯を少し残していた。代わりに残されたご飯を食べていると、横でげんなりとした顔で「よく食えるね」とカウンターにつっぷしていた。
 自分たちの家に戻り玄関ドアを開けると、やはりまだそこは「居住空間」とは言い難いほど空虚だった。必要最低限のものしか運び込まれていないため、玄関から廊下を通してリビングまで、まっすぐ見渡せてしまう。廊下には洗濯機に繋ぐパイプが飛び出したままだし、その先のリビングは内見に来た時とまったく同じ状態に見える。
 ここが、自分たちの家になっていく。
「……ただいま」
 小声で言うと、隣で至がにやにやしながら小突いてきた。
「なんすか」
 むっとして言い返すと、
「いーえ、なんでも」
 至が歌うように「ただいま」と言って、綴の横をすり抜けて中へ入っていった。からかわれたことに少し唇を尖らせながら、その背中を見つめた。
 なんだか、芝居をしている時と、似ている。芝居は、そこにないものを生み出す。存在しない人間を、世界を、感情を、演技で生み出す。この家も、本当は自分たちの家なんかじゃなくて、自分たちも恋人なんかではなくて、そういう二人を演じているだけの、まったくバラバラの二人なんじゃないかと思えてしまう。
「なにしてんの」
 廊下の向こうで、至が呼んだ。
「なんでもないっす」
 綴は返事をすると、靴を脱いで部屋へと入っていった。

 家になにもないと、することがない。正確には、何をすればいいのか分からない、という感じだろうか。部屋で脚本を書くことも、持ってきた本を読むこともできるが、手につかない。お腹が空いているのに、何を食べたいのか聞かれた時のような感じだ。
 そもそも、ソファや椅子、クッションがなければなんとなくどこに座るべきなのかも分からない。することもないのに自分の部屋にこもるのもおかしくて、綴はリビングの真ん中に座り込んだ。至も同じ気持ちなのか、自分の部屋ではなくリビングの地べたに寝転がって、スマホを見ていた。
 荷物の中からタオルやパジャマを出したあと交代でシャワーを浴び終えると、本格的にすることがなくなった。なんとなくリビングの壁を背もたれにして、二人並んで座っていた。あまりにも何もないから、いちゃつくというような気持ちにもならなかった。はたから見たら、相当間抜けだろう。何にもない部屋に、男二人がぼーっと座り込んでいるのだから。
 二人暮らしの始まりはもっと華やかでドキドキに溢れているものだと思っていたけれど、案外そうでもない。別にがっかりはしていないが、何かもっとしなくてはいけないんじゃないかと焦燥感を抱く。
 時刻は二十二時過ぎ。
「何もすることないね」
 至がスマホのゲームをしながら呟いた。至はゲームをしているから、こちらを気遣った発言なのかもしれない。
「そうっすねぇ」
 普段、この時間自分はなにをしていただろうか。脚本を書いてる時もあるし、勧められた本やDVDを見ていることもある。週刊の漫画雑誌を読んでいることもあれば、することがなくてスマホを見ている時もある。けれど、今はそのどれもがしっくりこない。
「……明日に備えて寝ましょうか」
 膝に手をあてて立ち上がる。
 明日は春組の朝練がある。寮から遠くないとは言えど、起きて着替えて顔洗ったらそのまま稽古室へ行けた今までよりは時間もかかるだろう。少し余裕を持って、行動した方がいいに決まっている。
「あ、至さんは起きてたかったら起きてていいですよ。おやすみなさい」
 そう言い残して自分の部屋に行こうとしたその時、ぐんとパジャマの裾を引っ張られた。そのせいで襟ぐりが首に引っかかって、喉が絞まった。振り返ると、至が見上げながら言った。
「今日は綴のベッドで寝る」
「は?」
 至は立ち上がると、綴の部屋へと吸い込まれていった。慌てて追いかけると、シーツを張ったばかりのベッドに、既に我が物顔で寝転がっていた。
「至さんのベッドも組み立ててもらったじゃないすか」
 呆れて言うと、至は寝返りを打ってこちらを見上げ、
「綴は本当、そういうとこ鈍いよな〜」
 と言って再び背を向けて丸まってしまった。
 自分で自分のことを鈍いと思ったことはないが、その言葉で至の本意にやっと気づいたので少し反省する。
「……今晩だけですからね」
 電気を消すと、思ったより暗くなった。足をぶつけるようなものはないが、慎重に歩いてベッドにたどり着くと、掛け布団をめくって至の横に体を滑り込ませる。振り返った至と目が合うと、今度は綴の懐に潜り込むように額を胸に擦り付けてきた。
「んふふ」
「や、ちょっと、狭いんですから詰めないでくださいよ!」
 シャワーを浴びてセットの崩れた髪を撫でると、自分と同じシャンプーの香りが舞った。
 まだ慣れない部屋で至と二人で寝ているのは、なんだか不思議な感覚だ。修学旅行の夜のように、くすぐったくて落ち着かない。
「結局ほとんど手伝ってもらっちゃいましたね」
「二人がいなかったら、今頃床で寝てたかもな」
 至は綴の胸元に顔を埋めたまま喋る。パジャマを通して、生温かい息が皮膚をくすぐる。
 そうして、パッと顔を上げた至が綴の顔を覗き込む。
「ていうか綴、物少なくない?」
「そうですね、本とかは持ってきましたけど。心機一転しようかなって」
 首だけを捻って、暗い部屋の中を軽く見渡す。実家から持ってきたお気に入りの小説やDVDはそのまま持ってきたが、収納はまだ購入していないので段ボールに詰め込まれたままだ。収納や家具はほとんど置いてきた。まだ現役の物ばかりだったから、次に部屋を使う人がそのまま使ってくれると有り難い。
 至の荷物が多すぎてこれ以上物を持ってくるのを諦めたというのもあるが、どうせなら思いっきり部屋を変えてみようと思ったのだ。
 綴は仰向けになると、汚れひとつない天井を見上げた。
 物がない、というのは爽快感もあるが、不安もある。この部屋が、この家が本当にちゃんと二人分の暮らしで埋まっていくのか、想像がつかない。自分と二人暮らしを始めたことを、至に後悔してほしくない。
 身をよじるようにして、至が体を寄せた。
「今度の休み、綴の家具買いに行こうよ。車出すからさ」
 首を横に向けると、至はまるで遊園地に行こうとねだる子どものように、目に悪戯を含ませていた。
「……その前に、冷蔵庫と洗濯機も買わなきゃですよね」
「そーだった。家電買うついでに家具も見よっか」
 何故そんなに綴の家具にこだわるのかは分からないが、楽しそうなので放っておく。実際、家具は配送を頼むにしても、移動手段として車があると行ける範囲が増えるので助かる。やはり、自分も免許を取らないと、と改めて思い直す。
「……それなら、あのショッピングモールの隣にあるところでもいいですか?」
 そう言うと、至が小さく首を傾げた。
「いいけど、なんで?」
「見たい映画があって、今話題になってる……」
「ああ、タイムスリップするやつ?」
 その映画は、海外では先行上映されているものだった。役者の演技ももちろんだが、何よりストーリーが複雑なのに分かりやすくて面白い、と評判だ。数日後に日本でも上映され始めるとのことで、どこか予定を空けて観にいくつもりだったのだ。
「そうっす。脚本の参考にしたくて……確かショッピングモールに映画館も入ってたはずなんすけど。一緒にどうっすか?」
 暗闇で輪郭を確かめるように、至の頬に触れる。
「いいよ。皆木先生に付き合ってやろう」
 至が笑って、頬の筋肉が盛り上がったのを掌に感じた。そして、至はうつ伏せの状態から身体を半分起こすようにすると、枕元にあったスマホを手にとった。
「あのショッピングモール、ゲーム売ってる店あるかな。今度ナイランのスピンオフが出るんだよね。予約したい」
 画面の光が、至の顔を青白く照らす。その瞳は、画面の文字を読んでいるのか左右にころころと動いていた。
「ネット通販じゃだめなんすか?」
 至のことだから、ゲームの予約はネットでしているものだと思っていた。すると至はわざとらしく顔の前で人差し指を振ってみせた。
「皆木くん。このゲームには店舗販売限定のグッズがついていてだね……」
「あぁなるほど……家電売ってれば、ゲームも売ってるんじゃないすかね」
 肩を寄せて、至のスマホの画面を覗き込む。開いていたのはショッピングモールの公式サイトで、モールの中にあるお店が階ごとに分けられ羅列されていた。スクロールされていく店の中には、服屋、靴屋、レストラン、雑貨屋、本屋、ペットショップ……よく知っている名前から全く聞いたことのないものまで、ぎっしりと詰め込まれている。きっとこれを一つ一つ回っていたら、一日じゃ時間が足りないのだろうな、と思っていると、至がスクロールする指を止めた。
「あ、ここゲーセンもあるじゃん。ここも行こ」
「ちょ、いいですけど、一日に予定詰め込みすぎじゃないですか?」
 至はちらりと横目で綴を見ると、スマホを傍らに置いた。
「一日で収まらなかったら、また行こう」
 そして、さっき綴がしたように、今度は至が綴の頭を撫でた。
「もちろんショッピングモールだけじゃなくて、もっといろんなところ、二人で行こう。何回も何回もそういうのを繰り返してさ、ゆっくり俺たち二人の暮らしを作っていこうよ」
 至が照れもせず、まっすぐ綴を見て言う。
「……至さん」
「ん?」
 綴はゆっくりと手を伸ばして、至の耳を指で優しく挟む。薄暗闇の中で、じわりと指先に熱が伝わる。
「耳、熱いですよ」
 暗くてよく見えないけれど、きっと今この耳は真っ赤に染まっているのだろう。
「うるさいなぁ」
 綴の手を払いのけると、至は隠れるようにまた背中を向けてしまった。
 変わることは怖いと思っていた。変われないことも怖いと思っていた。けれど、この人となら大丈夫かもしれない、なんて思ったけれど、恥ずかしいので言わなかった。
「そうですね、二人で、作ってきましょう」
 腕を回して、至の体を抱きしめる。その時、ぴくりと身体が震えて、綴は笑ってしまうのを堪えた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 なんだか眠ってしまうのがもったいない。けれど、早く明日を迎えたい。まだ、二人の暮らしは始まったばかりなのだ。至の背中が呼吸に合わせて膨らむのを感じながら、綴はゆっくりと目を瞑った。


 

至 綴webアンソロ、おめでとうございます!

同棲がテーマということで、同棲1日目を書かせていただきました。

楽しみだけじゃなくて寂しさとか不安もあると思うので、

是非二人で素晴らしい人生にしていってほしいです……!

そんな二人の同棲一日目を楽しんでいただけたら幸いです。

 

ようすけ

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