top of page

ご褒美はデイリーミッションのあとで

「至さん、はいどうぞ」
 恋人との同棲初日。カンパニーの奴らや綴の兄弟が手伝ってくれたおかげで、引越しの片付けも1日であらかた終わって。手伝ってくれた皆に綴が晩ご飯を振舞って、しばらくワイワイガヤガヤした後。皆が帰って、2人で洗い物をして、ようやくふたりきりでゆっくりイチャイチャできる!と意気込んでいた俺に綴が手渡したのは、葉書サイズの小さな画用紙だった。
「……何これ?」
「『お手伝いカード』っす」
 綴の言う通り画用紙にはでかでかと『お手伝いカード』と書かれており、カレンダーのようなマス目が50マスほど並んでいる。星やうさぎのイラストがやけにカラフルなので、一成あたりが作ったのかとも思ったが、この癖のない字は綴の文字だ。綴の弟にもこういったものを作っていたのかと思うと微笑ましいが、自分に渡されるのは全くもって面白くない。
「こんなのなくてもちゃんと手伝うのに……」
 今まで大人数で家事を分担していた寮とは違って、これからは俺と綴の2人でいろいろやっていかないといけない。大学卒業後晴れて脚本家となった綴のほうが、執筆で家にいることが多いから、ほとんどのことは綴に任せることになるけど。綴が脚本で大変な時には俺が家事をするつもりだったし、そうでなくても2人の家なのだから積極的に協力していくつもりだったのに。
「寮であれだけ掃除や洗濯物サボってた人が何言ってんすか」
 ……それを言われると、ぐうの音も出ない。実際、俺の身の回りのことは綴がしてくれていたわけだし。
「いや、でもね、ちゃんと心を入れ替えるつもりで、」
「はいはい。だから、至さんがちゃんとお手伝いしてくれたら、1日1個スタンプ押してあげます」
 俺の言い分を流して、カードの説明を始める綴。全くもって遺憾だけれど、素直にカードの説明を聞いてやる。スタンプは1日1個までで、10個貯まるとなんとご褒美がもらえるらしい。確かに、これなら小さな子は喜んでお手伝いをするだろう。弟くんたちもこうしてしつけてきたんだろうな、と密かに感心する。まあ、これからやっていくのが、ついこの前28歳になったばかりの俺というのが複雑ではあるけど。
「……ご褒美って、何くれんの?」
「それは貯まった時のお楽しみっす。じゃあ、さっき洗い物手伝ってくれたんで、早速スタンプ押しますね」
「……!えんたくナイトくんじゃん」
「この間行ったスーパーにガチャガチャが置いてあったんすよ。今度一緒に行きましょ」
 ひとマス目に押された、赤いインクの自分の好きなキャラクターにテンションが上がった。他のナイランのスタンプもあるのかな、なんて単純な俺はもうすでにやる気を引き出されている。そして、『一緒にスーパーに行こう』というのは、単なるデートのお誘いではなく、おそらく『車を出して荷物持ちをしてくれ』という意味も含まれている。本当、俺の扱いの上手い恋人だ。それにしても一緒にスーパーとか夫婦っぽくていいな。寮暮らしの時にも一緒に買い出しは行ってたけど、同棲したって感じがする。
「あ、もうこんな時間。そろそろ風呂入りますか?」
 気が付けばもう12時を回っていて、結局あまりイチャイチャできなかったことに落胆した。同棲初夜だったのに……。明日は俺も綴も仕事はないが、朝に届く家具とかもあるから、早く起きなきゃいけないし、夜更しはできない。
「……一緒に入る?」
 諦め悪くダメ元で一緒に風呂に入ることを提案する。綴は、寮で皆で入るのはともかく、ホテルとかで一緒に風呂に入るのは嫌がるのだ。まあ、俺がイタズラするせいなんだけどね。ほら、いつもみたいに呆れた顔をして──。
「……いいっすよ」
 断られると思っていたのに、小さな声で届いたのは肯定の返事で。そっぽを向く綴だけど、耳まで赤くなっている。予想とは反対の返事に、こちらまで顔が熱くなってきた。そうしている間に羞恥が限界に達した様子の綴が脱衣所に逃げ込んで、慌ててそれを追いかける。男2人で入るには狭めの脱衣所だけれど、そのおかげで真っ赤な顔の恋人はすぐに捕まった。
「……明日早いんだし、変なことしたら怒りますからね」
「おけおけ。俺も片付けで疲れてるしさ、たまにはゆっくり入ろ」
 へにゃり、と眉を下げて笑う綴の顔は、寮では見られなかった表情だ。この可愛い恋人を今日から存分に独り占めできることに自然と口角が上がって、窮屈そうに服を脱ぐ綴を抱きしめた。

 

「綴~、風呂掃除終わったよ」
「ありがとうございます。晩飯ももうすぐできるっすよ」
 同棲開始から早いもので10日目となった。綴との生活は順風満帆だ。朝起きたら大好きな恋人の寝顔を眺めて、俺は昼間は仕事、綴は今は抱えている脚本がないから短時間のバイトをして、稽古がある日はそのまま劇場へ寄って。稽古をした日の夜は寮で皆と食べたけど、稽古がない日は綴が晩御飯を作って待ってくれている。エプロンを付けて出迎えてくれる姿がもはや嫁で、あまりの可愛さに玄関で膝をつきそうになったことは一度や二度じゃない。同棲を始めてから毎日が楽しくて浮かれて仕方がないし、綴が家で待ってくれていると思うと仕事にも身が入った。
「じゃあ、今日の分のスタンプ押しますね」
 同棲前は何かと綴に小言を言われることが多かった俺だけれど、なんとここに来てからは生活面のことではほぼ怒られていない。それはこのスタンプカードのおかげだった。子供扱いされていることに若干の不満はあったものの、人間続けていれば慣れるもので。まんまと綴の策略に乗せられているわけだが、これがなかなかゲームのデイリーミッションのようで楽しいのだ。綴が褒めてくれる、というのも寮ではあまりなかったことで、褒められることにすっかり味をしめてしまった。そうして手伝えることを見つけては家事をやって、以前は多かったくだらない喧嘩も減った気がする。……綴はそこまで計算していたんだろうか、全く恋人ながら恐ろしいやつだ。
「あ、もう10個目なんですね」
「綴お兄ちゃんのしつけの賜物です」
「あはは、至さんにもちゃんと効果あって良かったっす。……それじゃ、最初のご褒美なんすけど」
 デフォルメされたランスロットのスタンプが押されて、楽しみにしていたご褒美に胸が高鳴る。弟くん相手ならきっとご褒美はお菓子やおもちゃだろうけど、俺は何だろう。何かをくれるんだろうか、それとも何かしてくれるのかな?ワクワクと綴の言葉を待つ。
「最初のご褒美は……ピザっす」
「おお!……ピザ?」
 明日の夕飯にピザを作ってくれると言う綴。確かに好物ではあるし、この数年で料理が上達して栄養バランスを考えてくれるようになった綴があまり食卓に出さないものなので、レア感はある。普通に嬉しい、嬉しいけど。
「えっちなことしてくれるのかと思ったのに……」
「何バカなこと言ってるんすか」
 恋人からのご褒美といえばそんな期待をしてしまうのは当然だろう。いや、恥ずかしがり屋の綴のことだから多分違うだろうなとは思ってたけど、それでもワンチャンあるかもって思うでしょ。めちゃくちゃに呆れた顔をされて普通に傷付いた。
「ひどい……そんな顔しなくてもいいじゃん……」
「はいはい。ほら、晩飯にしますよ」
 まあ、ピザ食べるの久しぶりだし、好物だし、嬉しいけどね。こういう時の綴にわがままを言っても仕方がないので、切り替えて準備を手伝う。年々俺のわがままへのスルースキルが上がってきている気がしないでもないけれど、それだけ長い付き合いだって思えば悪い気もしないのは惚れた弱みだ。今日は生姜焼きと味噌汁だって言ってたな、それじゃあ皿は──。
「……まあ、スタンプがたくさん貯まったら、考えてあげないこともないっすけど」
 味噌汁をかき混ぜる綴がぽつりとこぼした言葉に、思わず手が止まった。さっきまで話していた“ご褒美”の話だと気付くのにそう時間はかからなくて、恐る恐る綴の表情をうかがう。
「……何ぼけっとしてるんすか。さっさとお椀取ってください」
「ふは、りょーかい」
 顔をしかめてぶっきらぼうに言い放つ綴だけど、ほのかに赤く染まった頬が、それが照れ隠しだって証明している。
「明日のピザ、ベーコンいっぱい載せてね」
「……仕方ないっすね」
 お椀を渡しながら綴の隣に並んで、邪魔にならないよう少しだけ身を寄せると、彼の表情が少し緩んだのが見えて、俺も釣られて笑みが漏れた。

 

「……ふう、終わった。次はトイレ掃除だな」
 掃除機のスイッチを切って、ソファーに座りひと息つく。ちょうど回復していたソシャゲのLPを消費しながら、次はトイレ掃除をやって、その後は洗面台も綺麗にしてしまおう、と掃除の算段を立てていく。時間が余ったら、綴の昼ご飯でも作ってあげようかな。帰ってきた綴がお礼を言って褒めてくれる姿を想像して、ゲームもそこそこに立ち上がった。
 今日は脚本の仕事で綴が出かけている。俺は休みなので昨晩は遅くまで世界を救っていたわけだけれど、なんと珍しく早起きをして、いつも綴がやってくれている家事たちを片付けていた。家事をした報酬としてスタンプがもらえたり褒めてもらえたりするのは純粋に嬉しかったし、毎日スタンプを押してるから、このカードを見れば、綴と生活した日数が目に見えて分かって気分が上がるのだ。休みの日には精を出して家事をやっているなんて、昔の俺が知ったら驚くだろうな。
「今日で30個か」
 そのおかげで、スタンプは今日で30個目となる。綴は昼過ぎに帰ると言っていたから、その時に押してくれるだろう。30個目のご褒美は何がもらえるんだろうかと考えながら掃除をするのが楽しくて、思わず鼻歌が漏れた。
「20個目はハグだったんだよな」
 20個貯まった時には、その時残業続きで疲れていた俺を綴が抱きしめて、これでもかってくらい甘やかしてもらった。嫌な顔一つせず愚痴を聞いてくれて、わがままもたくさん聞いてくれて。すごく心が軽くなって、いつかまたスタンプが貯まったらお願いしようと思った。まあ、スタンプなしでも、俺がへこんでいたら綴はきっとまた甘やかしてくれるだろうけどね。
「意外と早く終わったな」
 前回のご褒美を思い出している間に掃除が終わった。時計を見ると12時半にさしかかるところ。もうすぐ綴も帰ってくるだろう。時間も余ったことだし、予定通り昼飯を作ることにしよう。
「えっと、ネギと卵と……あ、ニンジンもある」
 冷蔵庫を開いて材料を探す。チャーシューがなかったので代わりにウインナーを使うことにした。ボウルに卵を2つ溶いて、ご飯を入れて混ぜる。次はネギ、ニンジン、ウインナーを順に切っていくけれど、まだまだ包丁の扱いは苦手で、不揃いな大きさになってしまった。……まあ、前に作った時よりは上達してるよな、うん。フライパンに油をしいて、今切ったばかりの具材を炒めていく。ネギがしんなりしてきたところで、さっき卵と混ぜたご飯を入れて──。
「ただいまっす」
「おかえり、綴」
「いい匂い……何作ってるんすか?」
「炒飯。もうすぐできるよ」
 帰ってきた綴が、フライパンの中を覗き込んで、美味そうだと笑う。そりゃ、嫁に作り方を叩き込まれた料理ですから。初めは焦がしたりこぼしたりと大惨事だったけど、今ではすっかり得意料理だ。醤油と塩胡椒で味を調えて、できあがった炒飯をスプーンで一口すくった。それを綴の口元に持っていくと、嬉しそうに綴が口を開ける。
「味どう?」
「美味いっす!」
 綴のお墨付きをもらったところで、火を止めた。元々料理はあんまり好きではなかったけど、綴がこうして美味しいと笑ってくれるのが嬉しくて、また作ってあげようなんて思うのだから我ながら単純だ。皿を準備して、綴のほうに多く盛り付けた。
「綴、コップとお茶出してくれる?」
「はい。……あの、至さん」
「ん?」
 テーブルに炒飯を出すと、コップを持った綴が俺を呼んだ。返事をするけれど、綴は視線を泳がせて言葉を詰まらせている。出先で何か嫌なことでもあったのかな、と綴の表情をうかがうが、表情に曇りは見られない。ということは、こんな風に少し顔を赤らめて、落ち着かなそうに手に持ったコップを指先でいじっているのは、綴が何かお願いをしたり甘えたりしたい時だ。今はふたりきりだし、前よりは甘えてくれるようになったと思うけど、綴からの恋人らしいおねだりはまだまだ少ない。一言一句聞き逃さないようじっと顔を見つめていると、綴の口元が少し動いて、ちゃんと聞こえるようにと綴のそばに寄った。
「……えっと、あの」
「うん、なあに?……ぅん!?」
 コップを持つ彼の手の上から自分の手を添えると、意を決したように顔を上げた綴が勢いよく俺の唇を食んだ。その衝撃に驚いている間に唇が離れていって、くるりと背を向けた綴は何事もなかったかのように冷蔵庫を開けている。
「……今日で30個でしょ」
「え?」
「スタンプっす。まだスタンプ押してないけど……先払いってことで。今日も、昼飯以外も色々やってくれたんすよね?いつもありがとうございます」
 どうやら、今のキスはご褒美だったらしい。キスとかはもうちょっとスタンプを貯めないとしてくれないかな、なんて思っていたから、とんだ不意打ちだ。……せっかくのご褒美だったのに、一瞬過ぎて堪能できなかった。がっくりと肩を落としていると、綴が残りの食事の準備を済ませてしまった。
「ほら、食べましょ。冷めちゃいますよ」
「……うん」
 綴の言葉に渋々頷いて、彼の向かいに座る。次のキスをしてもらうには、何個スタンプを集めなきゃいけないんだろう。そりゃ、夜とかは綴からもしてくれるけど、ご褒美のキスとなるとまた話は別だ。もう1回してくれないかな。
「……また後でしてあげますから。ね?」
 俺の不満げな表情を読み取った綴が、小さな声で提案した。そんな一言で簡単に俺の機嫌を直してしまうのだから、綴には本当に敵わない。
 食べ終わった食器の片付けをして、綴にねだってたくさんキスをして、してもらって。その後に、順番が逆になっちゃいましたね、なんて笑いながらマーリンのスタンプを押してくれる恋人がどうしようもなく愛しかった。

 

 同棲開始から早いもので半年が過ぎ。綴に渡された『お手伝いカード』はすでに4枚目となった。綴はお手伝いカードはあの1枚で終わるつもりだったようだけど、デイリーミッションがなくなるのが寂しくて、お願いして次のものを作ってもらった。綴は仕方ないなと言いながらも毎回違うデザインのカードを作ってくれるし、いろんなスタンプをせっせと集めているので、なんだかんだ綴も楽しんでいる様子。このカードもあと3日でスタンプが全マス貯まるので、次のご褒美はもちろん、新しいカードがどんなデザインになるのかというのも密かな楽しみだ。
「……茅ヶ崎、それは?」
「これですか?『お手伝いカード』です」
 そんなわけですっかりこのスタンプカードを気に入ってしまった俺は、どこへ行くにもこれを持ち歩くようになった。手帳に挟んで、仕事中こっそり眺めては心の中でニヤニヤしている。それをちょうど会社の昼休憩で一緒になった千景さんに見られて、俺たちの関係を知っている彼に隠す必要はないだろうとカードの説明をした。
「……というわけで、家事をしてスタンプを集めると綴からご褒美がもらえるわけです」
「……尻に敷かれまくってるな」
「いや~、これがなかなか楽しくって。ご褒美も、毎回色々考えてくれるんですよ。そうだ、この前は、」
「別に言わなくていい」
 ここぞとばかりに惚気けてやろうとすると、心底迷惑そうな顔をされた。仕方がない、今度咲也や椋にでも聞いてもらうとしよう。先輩に見せていたカードを手帳にしまって机に置き、綴が作ってくれた弁当を広げて、蓋を開けて水筒を置いた。先輩は社内食堂で注文したラーメンを啜っている。
「それにしても、何で会社にそのカードを持ってきてるんだ」
「毎日続けてたら愛着湧いちゃったんですよね。それに、仕事中にこれ見るとHP回復するんで」
「……まあ、お前たちがうまくやってるならいいけど」
 先輩に理解できないという視線を向けられる。これだからノーロマン先輩は。とはいえ千景さんには寮にいる頃から俺も綴も相談に乗ってもらっていたから、なんだかんだ俺たちのことを心配してくれているのだろう。それを本人に聞いてもはぐらかされるけどね。
「汚したり落としたりするなよ」
「先輩、それフラグ。まあ、そんなことしませんけど……あっ」
「あ」
 そんな会話をしていた直後。お茶を飲もうと伸ばした手が、盛大に水筒を倒した。小さな水筒なのでこぼしたお茶の量はさほど多くないけれど、こぼした場所にあったのは先ほど置いたばかりの手帳で。……こんな見事なフラグ回収ある?
「……先輩」
「……こぼしたのは自業自得だ」
 慌てて中身を確認すると、濡れてしまってはいるものの、ほとんど油性のボールペンで予定を書いていた手帳の中身は無事だった。しかし。
「これは……」
「まじか……せっかく綴が作ってくれたのに……」
 問題は手帳に入れていたカードだ。ペンやスタンプが滲んでぐちゃぐちゃになってしまっている。気に入って大切にしていたのに、まさかこんな形で台無しにしてしまうなんて。こんなところに置いた自分が悪いのだけれど、それでもへこむものはへこむ。……綴になんて謝ろう。怒られはしないだろうけど、きっと呆れられるだろうな。綴の眉が下がるのを想像して、さっきまで浮かれていた気分が一気に降下した。
「女性用の休憩室ならドライヤーとか置いてあるんじゃないか?近くの女性社員に声かけて、手帳乾かすって言って借りてこい。ここは拭いておくから」
「……すみません」
 あまりの俺の落ち込みように流石の先輩も気を遣ってくれて、お言葉に甘えてその場を離れる。先輩の助言通りドライヤーを借りて乾かすが、当然滲んでしまったカードは元に戻らない。大きく溜息を吐いて、同棲してから初めて家に帰るのが憂鬱だと思った。

 

「ただいま……」
「至さん、おかえりなさ……どうしたんすか?」
 何とか仕事を終えて帰宅すると、いつものように綴が出迎えてくれる。いつもなら、充電と称してここで綴を抱きしめたりキスしたりするのだけれど、綴の顔を見たらカードをぐちゃぐちゃにしてしまった罪悪感がまた襲ってきた。そんな俺の様子に気付いた綴が、眉を下げて心配そうにこちらを見る。
「何か嫌なことでもあったんですか?」
「……」
「……とりあえず、飯にしましょうか。話したくなったら聞かせてください」
 無理に聞き出そうとはせずに、ぽんぽんと俺の頭を撫でて、綴が手を引いてくれる。洗面所で手を洗っている間に部屋着を準備してくれて、俺が脱いだスーツをそのまま部屋まで持って行ってくれた。……俺が落ち込んでいる時は、いつもそうだ。こうして甘やかしてくれて、俺の気持ちの整理がついて話せるようになるまでずっとそばにいてくれる。いつもはそれがありがたいけれど、今日ばかりは自分が情けなくなった。
「……ねえ、綴」
「なんですか?」
「綴に、謝らないといけないことがあって」
 首をかしげる綴に、鞄の中から例の手帳を取り出す。手帳自体はすっかり乾いて、紙がややうねっている以外は何の変化もないが、その中に挟んでいたカードを取り出すと、綴がわずかに驚いた顔をした。
「……ごめん。せっかく作ってくれたのに、お茶こぼしちゃって……」
 無言でスタンプやペンが滲んでしまったそのカードを受け取る綴。怒っている様子ではないけれど、困った表情をさせているかもしれないと思うと、綴の顔を見るのが怖くて俯いた。
「……それだけっすか?」
「え……?」
「いや、この世の終わりみたいな顔してたから、よほどのことがあったんだとばかり……」
「……俺にとってはそれくらい悲しいできごとだったんだけど」
「そんなにこのカード、気に入ってくれてたんですか?」
「……だって、このカードは綴と暮らした証明みたいなもんだし」
 俺がこのカードを気に入って大切にしていたのは、もちろん綴が褒めてくれたりご褒美がもらえたりするのが嬉しかったからでもあるけれど。一番の理由は、スタンプやカードが貯まれば貯まるほど、それだけ綴と過ごしたんだって視覚的に分かって嬉しかったからだ。この日は何を手伝って綴と何をしたな、もう何日綴と生活しているんだな、って、カードを見れば綴とどう過ごしてきたか鮮明に思い出せる。だからこそ、いつでも持ち歩いて元気をもらっていたのに。
「……そんな風に思ってくれてたんすね」
「そうだよ、悪い?」
「そんなこと言ってないでしょ。大事にしてもらえて嬉しいっすよ」
「……でも、ぐちゃぐちゃにしちゃって、本当にごめん」
「それは別に気にしてないっすけど……仕方ないっすね。じゃあ、作り直してあげます」
 顔を上げると、得意そうな顔で笑う綴が目に入った。
「ちゃちゃっと作っちゃうんで。ほら、その間に風呂入ってきてください」
「で、でも、」
「いいから、俺に任せてください」
 有無を言わさず風呂場に押し込まれて、おとなしく風呂に入ることにした。俺の不注意なのに綴が作り直してくれるのが申し訳なくて、せめて焦らせないようにゆっくり体を洗う。いつもよりも念入りに頭を洗った後、湯船に長めに浸かって風呂から出て、髪まで乾かして脱衣所を出た。
「……綴」
「至さん。ちょうどできあがりましたよ」
「え、もう?」
「はい。細かい部分は流石に覚えてないんで、ちょっと違うかもしれないっすけど」
 綴が真新しい画用紙に書き上げたカードを渡してくれる。確かに綴の言う通り細かな部分は違うけれど、デザインとかはほとんど同じだ。スタンプも、昨日までの分をほぼ同じものを押してくれている。直ったことによる安堵に、綴に向かって手を伸ばした。
「ありがとう、綴……!」
「あはは、大げさっすよ。これからは汚さないよう気をつけてくださいね」
「うん、もう絶対汚さない。一生大事にする」
「いや、そこまではしなくていいっすけど……ってか痛いっす」
 ぎゅうぎゅうと綴を抱きしめてお礼を言っていると、力が強いと怒られてしまった。渋々といったん離れて、綴の隣に座り直して寄りかかる。それにしても、本当に綴は仕事が早い。あまり器用ではないと本人は言うけれど、一度作ったものとはいえこういうカードをささっと作ってしまうのだから。感心しながら、嬉しくて新しいカードをじっと眺めていると。
「あれ?最後のマス、ハートマークなんか描いてあったっけ?」
 ごく薄いピンク色で描かれたハートマーク。薄すぎて目の錯覚かと一瞬思った。前のカードにはなかったはずだけれど。
「……まあ、もうカードも4枚目だし、そろそろ例のご褒美とか、あの、あげてもいいかなとか、思ったり……」
 どんどん語尾が小さくなっていく綴の表情をうかがうと、じわじわと真っ赤に染まっていくのが見えた。……例のご褒美、とは、もしや。期待のこもった視線で綴を見つめていると、耐え切れなくなった綴が勢いよく立ち上がった。
「さ、サボったらスタンプ没収ですからね!」
「サボるわけないじゃん。あと3日……いや、今日はこれから洗い物とトイレ掃除ボーナス確定してるからあと2日か~。何してもらえるのかな~」
「き、気にしなくていいっすから!晩飯の準備しますよ!」
「はーい」
 キッチンへ逃げていった綴を追いかけて、晩ご飯の準備をして。食べ終えたら、予告通り、綴が風呂に入っている間に洗い物とトイレ掃除を終わらせて。風呂から出た綴に今日の分のスタンプをねだると、平常心を保とうとしながら赤い顔でスタンプを押してくれるのが、おかしくて愛しい。そわそわと乾いたスタンプを指でなぞる恋人に、衝動のままに唇を寄せた。

 

Webアンソロジー企画『今日も明日もただいまを』 作品公開おめでとうございます!同棲すると至さんは綴くんに尻に敷かれそうだな~と思って書きました。楽しんでいただけますと幸いです。この度は素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました!

 

 

鏡丸

bottom of page