Theory of Love
「綴さ、」
ゲームをしている至さんが、おもむろに口を開いた。
声がしたのはリビングのほうから。
きっといつもみたいにソファに寝転がって、一方の肘掛に背を預け、もう一方にはその白くて美しいふくらはぎを置いているだろう。
行儀の悪いその姿をもう何年も、それこそ寮で生活をしていたころから見ていて、何回か注意をした気もするがもちろん直されるわけもなかった。
ただまあ、ここで暮らし始めてからは、その姿勢でお菓子を食べることはやめてくれた。(大喧嘩になったので)
ソファに転がってゲームをする至さんとダイニングテーブルに座って脚本を書く自分。
もう決まり決まった定型のかたち。ふたりだけの形。
「綴」ともう一度自分の名前を呼んだ至さんのほうなど見もせず、作業の片手間に「なんすか」と気の抜けた声で返した。
大学を卒業して脚本家としての仕事を外部でもするようになってからは、いわゆる若者言葉はやめようとしているのに、どうしても至さんと二人きりだと気が抜けてしまう。
出会って10年になるのに、至さんの前ではいつまでも18歳の自分のままだった。
目の前のディスプレイに広がる物語は起承転結の転たる部分が終わって、いよいよ、物語は結ばれる。ああ、ここまで長かった、と感慨深く思いながら、ひたすらに指と頭をフル稼働させている。
キータップ音だけがカタカタと響く。
目の前の作業に夢中で、こちらの返事に対し至さんから応えがなく妙に間の空いた時間もあまり気にしていなかった。
また少しして、至さんが急に口を開いた。
「綴、ほら、まだ若いんだし、遊んできてもいいよ」
「だれか、ほかのひとと」と、思わぬ言葉が飛び出してきたので、ぎょっとしてソファの至さんを見やった。
至さんはこちらなんか素知らぬ風で手元の端末の画面を見つめ、忙しなく指を動かしながらゲームを続けている。
「でも俺に分からないように、やってね」
って。やたらと平坦な口調だった。言い終わるとパッと手を止める。至さんの手元の端末から『You Lose』というゲーム音声が小さく響いた。
そして「風呂はいろ」と言って立ち上がり、こちらに一瞥もくれず、さっさとリビングから逃げていった。そう、逃げていったのだ、彼は。風呂なんて、いつもだったら何度も何度もこちらが声を掛けて、ようやく重い腰をあげるのだから。
リビングに取り残された俺は「なんだって?」と誰もいないソファに向かって呟いた。
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ふたりで揃ってMANKAI寮を出ていったのは5年前、自分たちの季節である春だった。
大学3年生になる少し前からずっと進路に悩んでいた。
伏見さんの大きな背中を見送ったあとから、大学卒業後の未来を考えることが増えた。
自分のやりたいことは分かっている。ただそれだけで生きていくには難しい、ということも。
卒業論文や演劇のための本を読んで、開館から閉館まで図書館に籠り、たくさんの脚本を書いて、毎日のように稽古して、舞台に立ち、バイトに行きながら、寮のキッチンでご飯を作って、思い立っては就活生向けの大規模説明会に行ってみたり、長期休みにはエンドリンクス社にインターンシップに行ったりして(それを伝えたとき至さんは漫画みたいに頭を抱えていた)、そうやって逃げるみたい、挑むみたいに空白の時間を埋めて、考えるよりからだを動かしたくて目まぐるしい生活をしていた。時間から逃れられるわけもない。
どこかの企業に就職するのであれば,いよいよ就職活動を始めないといけない、という頃合いになっても進路を決めかねていた自分は、慣れぬリクルートスーツを着ては連日一般企業の試験や面接を受け、全く本意のない、十全じゃない志望動機を創作し、そうして結果、『否』の通知を積んでいった。
会社に勤める自分を想像できないまま臨んだくせに、いざその通知が重なっていく様を見るとなんだか自分自身のことを否定されたみたいな気持ちになったりして、未来に対する不安と、自分の要領の悪さに息がつまりそうだった。
そんなときに、やっぱり自分に寄り添ってくれたのは至さんだった。
バルコニーでぼうっとしていた自分の隣に、至さんがやってきた。
テーブルの上のパソコン画面をのぞきこむ。真っ白のエントリーシート。至さんは、自分のあごを撫でたあと、向こうの空を見ていた自分を呼ぶ。
「綴」
綴って至さんに名前を呼ばれると、夜空に溶けていた魂が形を取り戻すようだった。自分の形を留めさせる、よすがのような声。
「もう就活やめたら?」
なんでもないこと、みたいに言うので、思わず慌ててしまった。
「い、いや、やめらんないっすよ!」
焦った声が上滑りするみたいに響く。
「大学行かせてもらっておきながら就職しないって。家族に顔向けできないじゃないですか」
今だって甘えさせてもらってるのに。って言葉は口先からは出ていかなかった。
「でも、綴どうせ普通の会社入ってもすぐ辞めるじゃん」
「、」
「だって綴は演劇で食ってくんだもん」
至さんの方を見る、美しい薔薇色の瞳がこちらを見ている。
「綴の生きる道はここにしかないでしょ」
「まあ、脚本のための経験値集めとして、いわゆる会社員ってのやってみたいっていうなら止めないけど」
ポンポン、と頭を柔らかに押される。子供扱いされるみたいでむず痒い。
「は、い」
「あと、これはもしかしたら今言うタイミングじゃないかもしれないけど、」
「綴が大学卒業するときに、寮出ない?」
寮でて、それで、一緒に住も
続いた言葉に呼吸が止まる。数秒してから、はっと薄く息を吐いて、真っ直ぐに至さんの顔を見る。
至さん、手、震えてるし、口角に少しだけ皺が寄って、ちょっと緊張してる。
ぐ、と胸が熱くなる。口を真一文字に結んでられなくて、口元が緩々と解けていくのが自分でも分かる。
湧き上がるのがときめきだったり、歓喜だったり、嬉しさだったり、涙だったり。
役者のくせに、脚本家のくせに、ぜんぜん言葉が出てこなくとも、もうすべてが顔に出てしまって、すべて至さんにばれてる。
おとななのに、悪戯に成功した子どもみたいに笑う至さんの顔が好きだ。
自分を見つめるときの、慈しんでくれてる、って分かる優しい目が好きだ。
心をすべて、彼に明け渡してしまいたくなる。
顔を覗き込んできて、ふふって嬉しそうに笑ったその顔を、俺は生涯忘れないだろう。
ー
そんな思い出を反芻しながら、台所に立っていた。
考えごとをしていても、長年やっている料理をする手は全く淀みなく動く。
至さんの好きな味、好きな食感、好きなもの。
美味しいって言ってくれたもの。また食べたいって言ってくれたもの。作ってってリクエストのあったもの。疲れてるときに食べさせたいもの。逆にあんまり箸が進まなかったもの。
ふたりきりで暮らすようになってから、出不精の至さんはますます家で俺の手料理を食べたがった。
いまの至さんを構成する体のほとんどは自分が作って食べさせたものと思うと、支配欲のような、独占欲のようなものを感じてしまう。その発想の薄暗さに、我ながらぞっとする。
そう、至さんなんか俺に作られてるくせに。
(あれ、なんだったんだ)
数日前、至さんが言い放った言葉を思い出す。
締切が数日後に迫った自分は至さんを捕まえて問いただす時間すら惜しくて問題を後回しにした。寝不足が祟って正常な判断ができなかった、と思ってほしい。
その日はそれ以上の会話を持たず会話を持たず、深夜に至さんが眠るベッドに入った。
数時間後に会社に行く至さんのために起きて朝食を作っていたら、リビングに入ってきた至全くいつも通りで、昨夜の発言などなかったみたいだった。
言及するタイミングを失って、俺は締切前のよくある日常をなんのしこりもなく過ごしてしまった。
昨日無事に脚本が上がったあと泥のように眠って、溜まっていた家事を一通り終えて、至さんの帰りを待ちながら夕飯の準備をして、そうしてようやくこの前のあれはなんだったんだ、と改めて問題に直面する。
『遊んできていいよ』ってなんだ。どういうことだ。誰かと遊んでこい。突然いうことか。
友だちは多いいほうだし、(至さんと比べたら)外に遊びに出てるほうだと思うけど。
言い出したからにはほかの意味がある。続く「だれか、ほかのひとと」と「俺に分からないようにやってね」って。『まだ若いんだから』『他のだれかと遊んできていいよ』って。分からないように浮気してこいよってことか。
そう思うと、なんとなく言い出したあとそそくさとした態度も腑に落ちるというか。いっそ、笑えてくる。
「へー?」
棒読みの自分の声が、じゅわじゅわと小気味よい音をたてるフライパンの上を滑っていった。
−
『今、会社でた。今日のご飯なに?』
『もうすぐ最寄り駅着く』
『綴?まだ寝てる?』
『もしかして、具合悪い?』
『つづるどこ?!!!!!!』
LIME未読メッセージ 75件、不在着信96回
もうすぐ着信が100件行くなあ、と明滅を繰り返す端末をただ見ていた。
そうしてすぐに、、ピコン、ピコ、と方々で音がする。
『綴どこに行ったか知らない?』というメッセージがLIMEの春組グループに入った。
すぐに『知らない』と返したのは真澄だ。それから、『あんた、また何かしたの』とも。
隣に座る咲也が心配そうに覗きこんでくる。
眉尻の下がった咲也のその顔を見ると、途端に申し訳ない気持ちが勝ってくる。
「迷惑かけてごめんな」って言うと、「そんな迷惑だなんて思ってないです!」と立ち上がってまで否定してくれる。
昔っから真っ直ぐで、周りのことばっかり気にしていて、そんな咲也のことが弟みたいで、かわいく思う。
咲也の手首を引っ張って真横に座らせると、そのまま自分の腕の中に閉じ込めた。「綴くん!」と驚いた声をあげる自分より一回り小さい、温かい体に、「咲也はかわいいなあ」としみじみと言う。
どこか至さんの瞳の色を彷彿とさせるような、柔らかい紅色の髪に指を挿し入れて頭を撫でる。
なされるがまま固まっていた咲也が、ふふっと笑って腕を俺の背中に回してくれた。あーかわいい、本当にかわいい。
そんなことを考えていたら、玄関からガタンと大きな音がして、ドタドタと足音がしてリビングの扉がすごい音を立てて開いた。ああ、ほら至さん、そんな大きな音立てて。古市さんに怒られますよ。
「綴!!!!!」
舞台仕込みの声量で大きな声を出すもんだから、「茅ヶ崎!うるせェぞ!!!」とこれまた化け物みたいに恐ろしい声量の古市さんに怒られてる。どっちもうるさい、と不満を言ったのは真澄だ。
「こら、綴、なにしてんの、離れなさい」
普段だったら震え上がっている古市さんの怒鳴り声にも関せず、またドタバタと覚束ない足つきこちらに寄ってくる。
「なにって。若い男と会ってるんですよ。至さんがそうしろって言ったんでしょ」
「な、あれは、その、」
うわ、茅ヶ崎最低だな、って後ろから千景さんの声が聞こえる。そうなんですよ、最低なんですこのひと。
千景さんの後輩でしょ、叱ってやってくださいよ。
「そう、かもしれないけど、でも、咲也はダメ」
そう言ってなけなしの腕力で咲也と俺を剥がそうとする。
非力な至さんにグイグイ引っ張られて、十分に振り解けるだろうに払うわけにもいかない咲也が困った顔をしているので、かわいそうに思えてきて少し腕を緩めた。
すると、隣にドスンと衝撃があって、だれかが座ったのを知る。
あ、っと思ったときには力強く引っ張られて、今度は自分が抱き締められていた。「真澄!」ともはや悲鳴みたいな至さんの声がする。
「咲也がだめなら俺」
真澄と出会ってすぐの頃のことが思い出されて、オーバーラップする。
自分が面倒みてやってたと思っていたのに、気づいたら面倒見てもらう場面が増えて、今だって真澄なりに俺の味方になろうとしてくれている。
「真澄…!大きくなって…」と感動に震えて真澄を抱きしめ返そうとすると「だめ、真澄もだめ」と情けない声を出した至さんが俺の肩を掴んで引っ張る。
ちらりと至さんの顔を見ると、朝しっかりと固めていった髪型は乱れてるし、汗すごいし、スーツの上着は着てないし、シャツの襟はぐちゃっとして、乱雑に緩められたネクタイは曲がってるし、スマートさの欠片もない。
家に着いて真っ暗な部屋を見て、俺がどこにも居なくて、連絡もつかず、そのまま大慌てで出てきたのだろう。
事故らなくてよかったな、その慌てぶりをみて思う。
情けなく下がった眉尻を見てるとなんだかかわいそうになって、俺は真澄の腕をポンポンと叩いて腕を解いてもらう。
ふんわりと緩めれられた腕のなかから真澄を見ると、への字型に唇が結ばれてて、ふいにかわいく思えて頭をポンポンと撫でてやった。二十代後半に差し掛かかろうとする男同士がやることじゃないかもしれないな、と思ったが、真澄もその場は何も言わずにいてくれた。
「咲也も真澄もだめ、で?だれとなら遊んでいいですか?」
「うん、」
「知ってると思うんですけど。」
「俺、至さん以外の男とは、できませんよ」
「知って、ます」
至さんは自分の言ったことをきっとすごく後悔しているって分かってるのに、
そのしおらしい態度になぜだか余計に苛立ちが募っていく。
ナイフみたいな言葉が口か溢れていくのを止められなかった。
「じゃあ、なんすか、女の人と遊べっていうんですか?」
自分の口から溢れていった言葉が耳に入ったときに、ひんやりと臓腑が冷えたみたいな心持ちがした。
そのナイフを突きつけられたのは至さんか、自分か。なんて。自分で言ってて自分で傷つくのは馬鹿らしい。
深い溜息とともに、その冷たいなにかを身体から追い出した。
隣に座る咲也が心配そうに至さんと自分を見比べて酷く心配しているのに気づいているし、その反対側の隣に座る真澄が嗜めるように腕を叩いたことにも気づいている。
ふたりが付き合いはじめてもう9年だ。
劇団の仲間にはとっくのとうにカムアウト済みだとしても、こんな生々しい話をするのは憚られたのけど、まあ春組のみんなと古市さんしかいないし、いいだろうか。許してほしい。
「たかだか5歳しか変わらないのに、なにが『まだ若いんだから』、なんですか」
「俺には至さんしかいないって、俺が、至さんしか知らないって、知ってるくせに」
「ごめん、綴」
そう言って最後にたどり着いたのは、やっぱり至さんの腕のなかだった。
安心する匂いを吸い込んで、そっと吐く。
至さんも傷ついているのが分かってるから、本当は至さんに顔 を見せて安心させてあげたかったけど、でも今は身体も心もよりかかることを選んだ。
至さんは臆病な人だ。
だから、こうやって試すようなことをして確かめようとするし、20年いようが、50年一緒にいようがきっと同じようなことを言うと思う。
「しょうがないから許してあげます」
「ん、ありがとう、綴」
「帰ろう」
「もうどこにもいかないで」
「はい」
至さんと一緒に暮らすことを決めたときに、ずっと一緒にいると決めたから。
一生不安を否定して、一生愛を肯定してやるのだ。
この度は素晴らしいご企画ありがとうございました。
同棲という設定をいかしきれず力不足を痛感しておりますが、
ずっとふたりで生きていってほしいなと思いながら書きました。
お目汚し失礼致しました。
恋川