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はじまり、これから。

1.
「至さーん、昼休憩しましょ……って」
 昼をとうに過ぎても部屋から出てこない至さんを呼びに俺はドアを開ける。俺は至さんのダンボールの数より圧倒的に少なかったので既に自室の片付けを終え、さらには台所もある程度整理したところだった。
 扉を開けるとあちこちに詰まれたダンボールは所々開かれており、床から天井まである二つの本棚の前には本が積まれている。シリーズ毎や作家別にまとめられたそれを背表紙を見ながら至さんは棚に並べていた。早くも一つ目の半分ほどを漫画が占領している。
 ドアを開けたまま俺は本棚の方へ歩み寄った。
「コレ片付いて、ます、か?」
「片付いては……いるハズ」
 至さんは本棚の前に座り本に囲まれていた。本を片手に言葉とは裏腹に進まないぎこちなさを背中で語っている。
 俺は至さんの横まで行ってダンボールを覗き込んだ。どうやら空になったものもまだ畳んでいないらしい。それでは部屋も狭く感じるだろう。次に棚の上のほうに置かれたスマホが目に入った。暗くならずに放置された画面にはLP満タンを知らせるバナーが並んで表示されている。至さんのことだから途中で休憩と称しゲームをしているだろうと踏んでいた俺はその溜まった通知に少し嬉しく思った。
 スマホを手に取って至さんの前に出す。
「もー、後で手伝います。とりあえずお昼食べましょう」
「うん、お願いします。実はお腹空いてたんだよね」
 至さんは差し出されたスマホを手にとり俺の方を向いて笑った。手にしていた漫画をまた本の山に戻して至さんは立ち上がる。慣れたようにスマホのロックを解除している様子を見て俺は部屋を出た。至さんも画面を見ながらついて来る。まだ慣れない部屋でダンボールにぶつからないかヒヤヒヤしたのは内緒だ。
 キッチンに戻って食器棚から器を二つ出して並べる。既にざるにあげて冷やしておいた蕎麦をそれに分け入れた。至さんはキッチンカウンターの向こうから覗き込んで言った。
「引越し蕎麦だ」
「っす。夜は豪勢にするつもりなんで昼はそこそこにって思って」
「なるほど。じゃあ丁度いいね」
 至さんはスマホを片手に俺の作業を眺めている。そんなに時間もかからないし手間もないから座っていても良かったのにと思いながら、俺は鍋の蓋を開けてコンロの火をつけた。至さんを呼ぶ前に一度作って置いたので、中に入っているつゆはすぐに沸騰する。大きく斜め切りしたネギがクタクタとしており、美味しそうな匂いを漂わせている。火を止めておたまで鍋からつゆを蕎麦の盛られた器に入れていく。静かにあがる湯気がシンプルながらもより美味しそうにさせていた。
 俺は出来た蕎麦をカウンター越しに至さんに渡す。至さんはそれを当然のように受け取りテーブルに持っていった。その間に俺はまだ中身の少ない冷蔵庫を開けてタッパーを取り出し、引き出しから箸二膳と小さめのスプーンを持ってテーブルに向かう。至さんの方にピンクの箸、自分の方に緑の箸を器の淵に乗せた。この箸は寮を出るときに春組の皆から貰ったものだ。
「東さんが持たせてくれたんで多分結構良いやつだと思います。なんか上品さ漂う感じの箱に入ってて……昼に食べてねって」
「東さんお墨付きってだけで高級に思える不思議」
「まあ実際東さんのお土産とか貰い物とか当たりどころか最高にうまいっすからね」
 流れるようにタッパーの蓋を開ける。中には寮で準備して持ってきた万能ネギの小口切りと揚げ玉が入っている。ちゃんと伏見さんには許可を貰った。至さんはそれを見て「準備万端」と小さく笑った。
 先に席についていた至さんの向かいに俺も座る。俺が両手を合わせると至さんも同じように手を合わせた。
「いただきます」


5.
 昼休憩が待ち遠しい。今すぐにでもという気持ちで俺は仕事をしている。うちの会社は休憩時間が決まっているものの、個人の案件次第で前にも後にもしていい事になっている。そうは言っても何か急ぎの仕事やひと段落着くまではと思っている時以外は大抵が既定の時間に休憩に入ることにしている。それが今は時計の針の進みさえ気になる始末だ。別に空腹なわけでもないのに学生の早弁のように今すぐにでも弁当を開けたい衝動に駆られる。だめだ仕事が進まない、この件が終わったら時間になっててもなっていなくても休憩に入る。そう決めて気を引き締めなおし目の前の案件に手をつけた。
 取引先にメールを送って後はその返事待ちだと時計を見る。休憩時間までもうすぐだ。この案件の担当はそんなに早くメールを返してくる人ではないので、もういいかと鞄から小さなバッグを出した。席を立って社内のあちこちにある休憩スペースの一つに腰をかける。ランチバッグから布の四角い包みを取り出し、包みの結び目を解きながら俺はこの弁当が出来た経緯を思い出していた。

「相談なんすけど、お弁当作ってもいいすか?」
 綴がそう言ってきたのは昨日のことだ。晩飯も終わってソファでまったりとソシャゲをしている俺の横に座っていた綴はクッションを膝において本を読んでいた。インプット期だと言っていたから図書館で借りてきた本だろう。その割りに本から何度も視線を外してそわそわと俺の方を見ていたので何かあるのかなとは思っていたが、考えていなかった言葉が綴から出てきたことで俺はきっときょとんとした顔をしていただろう。
「……なんの?」
「昼飯なんすけど」
「あ~、なるほど。いいよ。ていうか俺に聞かなくてもいいのに。綴が料理してくれてんだからさ」
 言いづらそうだったからもっと重大なことまで考えていたから少しだけ拍子抜けした。
「やっぱ食費出してもらってるし……」
「そんな気にしなくても。なんなら綴のついでに俺のも作ってくれていいよ」
「……ふは、なんすかそれ。じゃあ明日から作ります。何も準備してなかったんで凝ったものはないですけど」

 そういうわけで、今日この弁当はある。綴が作る弁当といえば、学生組に振舞われている印象で寮に住んでいた頃もついでに時々作ってもらっていた。弁当用におかずは冷めててもおいしく食べられる濃い味付け、定番のラインナップ。それが美味しくて嬉しいから学生組もことあるごとに綴に頼んでいたのだろう。三角が手伝っていた日はご飯はおにぎりになっていたが、包みの袋を見るに今日は普通に弁当に詰められているだろう。
 包みを開いて布を広げたまま弁当の蓋を開ける。二段になっている弁当箱の上はおかずだ。卵焼きにプチトマト、ほうれん草の胡麻和えにきんぴらごぼう。アスパラの肉巻きも入っていて綴は「期待すんな」って言っていたけど結構ボリューミーで俺からしたら十分に豪華だ。自然と口角が上がるのを意識しながら、上の段を横にずらして下の段のごはんと並べる。真っ白なごはんの真ん中に梅干しが堂々と鎮座しており、家では出てこないのにいつ買ったのだろうとまた少し笑う。
「いただきます」
 まずは肉巻きを口に運ぶ。弁当サイズになっているので一口だ。濃い目のてりやきで味付けされていて冷めてても美味しい。中のアスパラも硬すぎないけど食べ応えがあって良い。流れるようにご飯に箸を伸ばす。端の方から真っ直ぐ下に箸を入れてすくいあげると、ごはんの中腹が茶色に染まっている。まさか、と思い口に運ぶと鰹節と醤油そして海苔の味が広がった。見た目は日の丸ごはんなのに、実際はのりごはんだったようだ。なるほどこれなら蓋や上段の底に海苔が付くこともなく、挟まれた両方に味もついて一石二鳥だ。
 どれも好みの味でどんどん箸が進んでいく。肉巻きはアスパラのほかにじゃがいもが巻かれているのもあって、そっちも味が染みてて美味しかった。てりやきこってりの肉巻きと対象的にきんぴらごぼうはあっさり味付けされていて、卵焼きは優しい甘さでそのどれとも違うほうれんそうの胡麻和えがバランスを取ってくれている。あっという間に食べ切ってお弁当箱は綺麗に空になった。
「大満足すぎる……。」
 LINEで伝えるか一瞬悩んだが、こういうことは面と向かって言うに限るなとアプリを閉じる。弁当箱を片付けようかと思ったが思い直して弁当包みの布を畳んでバッグに入れた。弁当箱を重ねて片手に持つ。もう片方でスマホをポケットに入れ、バッグを持って給湯室の方へ向かった。
 使ったことはなかったが給湯室のシンクにはたしか共有だが食器用洗剤とスポンジが置いてあったはずだ。帰ってからも自分で軽く洗うけど、少しでもすぐに洗っておいた方が放置するよりは断然良いだろう。
 給湯室に入ると記憶通り洗剤とスポンジ、そのほかに手洗い石鹸や布巾も並べられていた。誰か管理しているのかスポンジも綺麗なものが置かれていてやる気が削がれる事はなかった。もし綴の弁当を食べられる機会が増えるなら自分用にスポンジを置いておいてもいいなと思う。
 給湯室内にある飲食スペースの椅子にジャケットを脱いでかけ、バッグをテーブルに置く。シャツの袖を捲くって蛇口のレバーを下げた。まずは弁当箱を崩して中を水で流す。スポンジを手にとって水をつけたら洗剤を少し乗せて泡立てるようにギュッと握った。泡が出たら弁当箱を軽くこすっていく。満遍なく終わったら水で流して、と考えたところで水切りがない事に気がついた。ああ、しまった。見える範囲にあるものだともう布巾しかないが、これは明らかに台拭きだよなあと思う。
 困っていると後ろから声をかけられた。
「もしかして拭くのどうしようかって考えてますか?」
 気付かなかった俺は勢いよく振り返って声の主を見た。部署は別だが同期の女性だ。誰彼なしに分け隔てなく接することが出来る人で、周りの人で例えるのなら監督さんのような人だ。
「はい。洗ったは良いものの考えてなくて……」
「私も最初そうでした。ここに紙ナプキンあるんです。ちょっと手間ですけどこうやって脇に敷いて、洗い流してすぐこれで拭いて置いていったらいいですよ」
「ああ、なるほど。ありがとうございます。やってみます」
 言われたとおり泡を流してすぐに拭く。横に伏せて置いて次も同じようにしていく。最後に蓋を拭いたら水を止めて、置いておいた弁当箱を確認しながら重ねる。職場でやるには充分ではないだろうか。次の時にはスポンジのほかに布巾も用意しないとなと思い、飲食スペースを振り返った。
 そこには紙ナプキンの場所を教えてくれた同期が椅子に座っていた。同期はなぜか俺の方を見ていて、そんなこと想像していなかった俺は少し肩を揺らす。俺がバッグのもとにぎこちなく向かっていくと同期は視線を外すことなく追いかけてきた。不躾なことをする人じゃないから、なんだ……? と思っていると同期は口を開いた。
「もしかして彼女さんですか?」
「……はい。自分のついでに作ってくれて」
 どう答えるか迷ったが、正直にそう言う。まあ"彼女さん"ではないが、特段大きく間違っているわけではない。
「なんだか茅ヶ崎さん楽しそうだったのでそうかなって。ついでってことは同棲とかですか?」
「ええ、つい先日から。したいとは思っていたんですけど言う勇気がなくて。でも言えてよかったです」
 俺の言葉に少し目を大きくして口に手を当てている。びっくりしているのだろうか、そんなおかしな発言だったか、はたまた似合わないと思われているのか。団員以外に綴の話をしたことがなかったから戸惑いが顔から出ないように気をつけながら俺は止まっていた手を動かして洗った弁当箱をミニバッグに入れた。「ふふ」という笑い声が聞こえて顔をあげる。同期がにやにやと楽しそうに笑っていた。
「いいなあ。愛されてますね彼女さん。あ、そうだ私も洗いに来たんです!」
 そんな言葉を残して同期は立ち上がってパタパタと自分の弁当を洗っている。これ幸いとその姿を横目に俺は「お先に」と言って給湯室を後にした。
 同期の言葉に恥ずかしさを覚えたのもあるが、綴に会いたくなってしまった。朝だって会ったし帰ったらもちろん居るのは分かっているけど、それでもさっさと仕事を終えて家に帰ろうと思った。帰っても綴と会うのに時間がかかることもある寮とは違って独り占めできるのはやっぱり原動力になる。
 仕事を再開させるため、俺は自席に戻ってメールを開いた。


21.
 カーテンから盛れる光で目を覚ました。1人ベッドから降りて、洗面所に向かう。手を上に上げて体を伸ばしてから顔を洗い、キッチンで朝食の準備をする。今日は俺だけだからなんでもいいな、とトーストを焼いてチーズと海苔を乗せる。どちらも一つずつ使えるから1人のときは大体こうなる。後は昨日のおかずの残りとか乗せることもある。まあ、自分しか食べないのだから味が良ければなんだっていいと思っている。
 キッチンで立ちながらパンを口に運び今日やりたいことを頭の中で整理する。まずは布団を干して、掃除をする。洗濯機も回して、晩飯の準備をゆっくりと始める。ついでに昼飯というところだろうか。一枚を食べ終わるとオーブンからチンッという音が鳴った。それを空になった皿へ取り出した。賞味期限が近いからと乗せた納豆が結構香ばしい匂いをさせている。ちょっとラー油を垂らして熱いうちに齧り付く。案外美味しいぞとオススメされてからいつかはと思っていたトーストではあったが、本当に結構美味しくてぺろりと食べてしまった。
 手早く使った皿を洗って水切りかごに入れる。よし、と気合を入れて動き始めた。まだ布団を干すには早かったので、とりあえず洗濯機を回す。今のうちにやっておけば布団を干すときに一緒に干せていいだろう。次は掃除。出してあるものを全て指定の位置に戻して、掃除機とフローリングワイパーを出してくる。まずはワイパーにドライシートをつけて端から拭いていく。
 次に掃除機、最後にワイパーにウェットシートをつけて再度端からしっかりと拭いたら完了だ。これを一部屋ずつやっていくと結構時間ってあっという間なんだよな。そう思い時計を見ると予定していた時間を少しばかり過ぎていた。
 じゃあ始めるか、と寝室から布団を出してくる。2人で使っているベッドはこれまで使ったことのない大きさなので持っていくときは少しばかり難儀した。布団干し用の袋に入れベランダの柵にかけて布団はさみでズレたり落ちたりしないように挟んだ。敷布団と掛け布団を横に並べてなんだか手を腰にやってうんうんと頷きながら眺める。今日は良い天気だからきっと良くなるだろう。
 部屋の中に戻り洗濯機の様子を見に行く。あと9分と表示されているのでその間に再びベランダに出てピンチハンガー2つを物干し竿に並べる。そのあと俺はテレビとソファのスペースに敷かれたカーペットに足を伸ばして座った。少しばかり休憩だ。またすぐベランダに出るからと網戸にした窓から風が入ってきて心地が良い。
 まどろんでいる俺を洗濯機のピーっという洗濯完了の合図が呼んだ。覚醒もままならないうちに俺は洗濯機へ向かう。中から洗濯物を取り出して洗濯かごに入れた。かごを持ってベランダに出る。奥にかけた10連ハンガーに服を、ピンチハンガーの方にズボンやタオルを干していく。どちらのハンガーも真ん中を少し残すだけで丁度良かったなと思った。
 時計を見ると針は昼飯の時間を示していた。どおりでお腹が空くわけだ。しようと考えていたこともほとんど終わっているし、ゆっくり何か食べようかなと俺はキッチンの一番奥、備え付けられた上棚を開けた。下のほうには至さんが買ってきたカップ麺が並んでいる。種類も多岐にわたっていて時々興味をそそられて貰うことがある。俺はその上にあるレトルトの箱を手にとった。いつかの時にスーパーの福引で当たった高級和牛丼の具レトルトだ。
 一緒に当たった和牛カレーがすごく美味しくてずっと取っておいたけど、一つしかないからやっぱこういう機会に食べておかないとな。冷凍ご飯、卵と一緒に炒めて牛丼チャーハン
を作って、粉末の中華スープも付けて食べていると、スマホからLIMEの音がした。
『予定通り今日は15時頃には帰れそう』
 至さんからのメッセージだ。それに簡単に返信すると俺は気分も高らかに口いっぱいにチャーハン頬張った。
 2日前、至さんは大阪に出張に行った。大阪というか、関西というのが正しいのかもしれない。要は行動拠点が大阪なだけらしい。ホテルが変わらないのは良いけど、大阪に戻らないといけないのが面倒だと至さんが嘆いていた。今日は直帰でそのまま明日あさってと休日だからと己を奮い立たせて出かけていった。
 そう、俺が今日布団を干したり家中を掃除したりしたのは疲れて帰ってくるだろう至さんを綺麗な部屋で迎えたかったからだ。至さんが帰ってくるまであと二時間ほどだ。天気も良いから布団干しはもう良いだろう。
 俺は空になった皿を洗ってベランダに布団の具合を確認しに行く。触った感じは結構良い気がしたので軽く表面を払って部屋の中に入れる。太陽の匂いがして今すぐにでも飛び込みたい気分に襲われた。いかんいかん、と頭を振って寝室のベッドに敷く。あたたかくなった布団の魅力的な匂いに逆らえず俺は立てひざになって頭を布団に預ける。安心する香りに包まれて俺は一度大きく深呼吸した。
 しばらくして、こうはしていられないと立ち上がってキッチンに行き冷蔵庫を開ける。きっと出張中はそんなに好きなものも食べられなかっただろうから至さんが好きなメニューを作ろうと思って昨日材料を買ってきた。それでいて別に特別メニューでもなく、うちではよく作るようなおかずばかりだ。
 準備を進めているうちにスマホのアラームが鳴る。14時50分だ。至さんそろそろだな。下ごしらえもあと少しで終わるし今日は本当にスムーズだ、なんて考えながら出来上がったものを皿に並べていく。サランラップをかけて冷蔵庫に入れた。
 そのままコーヒーを淹れる準備をする。インスタントの瓶を棚から出してカップを2つ並べる。やかんに湯を沸かしている間にカップにインスタントコーヒーを入れて少しの水で溶く。スプーンで回して後はお湯を入れるだけ、準備完了だ。
 まだかな、なんて思ってやかんを見ていると玄関からガチャガチャという音がする。鍵が開いてドアが引かれるのを音で認識した。すぐさま俺はコンロの火を止めて玄関に小走りで向かった。至さんはスーツケースを玄関に引っ張り入れて振り向く。少し疲れの見える顔を綻ばせて言った。
「ただいま」
 出張から至さんが帰ってきただけなのに、俺はやっぱり嬉しくて笑って言う。
「おかえりなさい」


30.
 社内チャイムが鳴った。定時を知らせる音だ。俺はパソコンの電源を落としてビジネスバッグに机の上に出していた手帳や飲み物を入れる。すると隣の同期が目線をモニターからこちらに向けた。
「茅ヶ崎最近帰る時楽しそうだな。今までも別に疲れた顔はあんま見たことないけど」
「そうかな? まあ家で嫁が待ってるんで」
「つかその指輪マジなんだな。俺はてっきりついに女避けでしてるのかと思ってたわ」
 もう仕事はやめだ、と如く同期は背もたれにぐっと体重をかけた。彼は結構俺にも話しかけてくるタイプで俺の女性人気を良く思わない人達とは違って接しやすく、同期の中じゃ俺の好感度はぶっちぎりで高い。この遠慮のない言い方も俺としては共感できて憎めない奴だ。
「って言っても同棲だけど。踏み切ってみて良かったと思ったよ」
「うわ、その顔見てりゃ分かるわ。さっさと帰ってやんな。お疲れ様」
「はは、お疲れ様です」
 俺は話を終えてオフィスを出る。なにやら後ろからざわざわとした声が聞こえたが俺は時間を確認して予約の時間に間に合いそうだと胸を撫で下ろした。
 今日は綴と2人で住み始めてから一ヶ月だ。特に記念日に拘りがあるわけではないし、むしろこういう日を覚えているほうが珍しいが念願の綴との同棲がひと月を迎えることは喜びもひとしおだ。毎月お祝いしようとは思わないが順調に暮らせている記念すべき一ヶ月くらいは幸せに浸ってもいいだろう。
 そう考えて俺はプレゼントを用意した。気付いてから今日までそんなに期間があったわけではないので、そんな豪華なものは用意していない。そもそも綴は見て分かるような高いものだと恐縮してしまいそうだ。そういうわけで俺が選んだプレゼントはタオルケットだ。もちろんそれなりの値段が張るものだが、綴がタオルケットましてやブランドものの金額を見て分かるとは思えないので渡すには最適だ。
 寮に居たときから綴は案外よく昼寝をした。といっても綴は普通の人より少しだけ頻度が高いだけで、常に昼寝をしているやつが他にも居るから目立つことはなかった。脚本を書いていると脳を使っているからか、日当たりが良い場所や風通しの良い場所だと時々手元にノートパソコンを置いて気持ちよさそうに寝るものだからブランケットを持ってきてかけてやったものだ。締め切り前もそれくらい寝てほしいが、今は置いておく事にする。こういうこともあって俺は部屋を決めるときに昼寝に最適な日差しが入るような間取りを希望した。
 俺の策略通り、綴は日当たりの良いソファの窓側に座ってうたた寝をする。開けた窓から入る風で揺れる髪がここちよさそうに見えて、つい俺も隣に座ってゲームをしてしまう。今はブランケットで丁度良いけどこれから温かくなってくると少し暑そうだし、タオルケットなら吸水性も高いし汗をかいてもすぐ乾いて良いだろうとプレゼントに決めたわけだ。刺繍を入れるサービスもあってもちろんそこは"Tuzuru"と入れてもらい、受け取りは今日でお願いした。
 そのため今日は時間に受け取れる定時ぴったりにあがれるようにと思っていた。少し予定はズレたが問題なく間に合うし、やはり団員以外に綴のことを話せたのは嬉しかった。さくっと引き取って早く家に帰りたくなり、俺は自然と足早になる。今日の晩飯はなんだろうと思いながら。

「ただいま」
 玄関に入った瞬間美味しそうな匂いが俺を包んだ。今すぐにでもキッチンに向かいたい気持ちが膨れる。
「おかえりなさーい」
 廊下の先から綴の声がする。きっとキッチンでご飯の準備をしていて手が放せないのだろう。寮の時は違ったけれど越してきてからは余裕があると玄関まで迎えてくれる日もある。
 俺は気にせず靴を脱いで寝室に向かった。ウォークインクローゼットの扉を開けて中に入り、スーツのジャケットを脱いでハンガーにかける。Tシャツにいつものスカジャンスタイルになったらプレゼントが入った紙袋と脱いだ服を持って部屋を出た。洗濯かごに服を入れ、洗濯機の上に袋を置く。手を洗ってうがいをした。これは寮の時から外から帰ったらやることと決められていたのでもうルーティーンの一つだ。
 よしっと袋を手にリビングダイニングの扉を開けた。
「ただいま」
 俺は改めてキッチンに居る綴を見て言った。タイミングが良かったのか綴は火を止めて俺の方を向く。
「おかえりなさい。お疲れのところすみませんがこれテーブルにお願いします」
「はーい」
 カウンターに並んでいる料理を綴は指差して言った。それに元気よく返事して持っていたプレゼントをソファに置き、俺は言われたとおりお皿をカウンターからテーブルに移していく。見るからに多い品数に俺の口角は上がった。それから綴がスープを器に入れているのを横目に料理に合わせて引き出しからフォークとナイフを取って並べる。すぐに綴は用意したスープを両手に俺の後ろからテーブルにやってきた。ゆっくりと置いて二人で椅子に座る。
「お待たせしました! じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 テーブルに並んだ料理は和食や中華が得意な綴には珍しく洋食だ。チキンとカルパッチョ、ペンネにスープそれにバゲットか。豪華なラインナップだ。彩りも良くてあれもこれもと目移りしてしまう。チキンはトマトソースにチーズが乗っててピザ風で美味しそうだ。カルパッチョはサーモンとオニオン、ペンネにはたっぷりとボロネーゼがかかっている。スープはベーコンとえのきが入ってて見た目では分からないけどガーリックの匂いがする。そしてバゲットの横にはディップソースの入ったココットが2つ。1つは緑色だからアボカドでもう1つは透明感があるからオリーブオイル系だろうか。
「こんなに豪華だと何から食べるか悩むな……」
「俺のオススメはやっぱりチキンですかね」
「じゃそれから」
 一枚の大きなチキンは食べやすいように切られている。切り分けることを想定されて乗せられているピーマンやパプリカは輪切りよりも小さく切ってあった。その一つを自分の手元にある小皿に取り分けて、一口食べる。鶏肉がふんわりとしていて噛むと肉汁がじんわりと口に広がる。それがピザソースとチーズに絡んで味わいを深くした。
「ん、まい! トマトのさっぱりと濃厚チーズでバランス良いし、ほのかにバジルが香っていいね。肉も外パリパリ中ジューシー、俺これ好きだわ」
「ピザも考えたんすけど生地作ったり広げたりが難易度高そうで、こっちにしてみました」
「たしかに。それにこれならピザとチキンが一緒に食べられて一石二鳥でいいじゃん」
「一石二鳥?」
 そう言って綴は小さく笑った。それから他の料理も片っ端から食べていく。レモンでさっぱりとしたカルパッチョは玉ねぎの辛味が程よくてサーモンで巻いて食べると丁度良かったし、ペンネのボロネーゼはチキンのトマトソースとはまた違って贅沢に使われたひき肉の油と大きさの揃えられた野菜で少し甘みがあって美味しかった。バゲットのソースは想像通りアボカドディップとオリーブオイルもといアヒージョ風ディップだった。オリーブオイルの方にはマッシュルームにえびとブロッコリーが入っていて、上に乗せて食べるとまさにアヒージョだった。ガーリックスープは使った野菜を使ってて基本も粉末だから手抜きだって綴は言っていたけど俺好みの味ですごく美味しかった。
 お皿の上も半分くらいになってきた頃、俺は一度箸を置いて気になっていたことを綴に聞く。
「そういや、なんで今日こんな豪華なの」
「えっと……至さんはあんまり覚えてないかもしれないっすけど、今日引っ越してからひと月だったんで」
 綴は言いづらそうにした後、両手を膝に置いて少し目線を下げて恥ずかしそうにしながらごにょごにょと言った。その様子がなんとも可愛かったけれど、綴が覚えているとは思っていなかった俺はその発言にびっくりして一瞬言葉を詰まらせる。
「……綴も覚えてたの? こういうのそんなに拘りないって言ってたから違う記念日かと思っちゃった。ちょっと待ってて」
 食事中ながらも俺は立ち上がってすぐそこのソファから紙袋を取り綴に渡した。
「はい。これ俺から綴に」
 箱に入れられているタオルケットはそれなりに大きい。綴は受け取った後、興味深そうに袋をちらりと覗いたが上からではなにが入っているか分からないようだった。視線を俺に戻して綴はキョトンとしていたが、それが何のプレゼントなのか理解したようでゆっくりと口を開いた。
「至さんも覚えてたんすか?」
「まあ俺にとっては待望だった綴との同棲だからね」
 俺の言葉に綴は嬉しそうに目を輝かせてもう一度紙袋の中身を見た。隠し切れなかったのか小さく「んへへ」と変な笑いをこぼしている。嬉しそうにニコニコしたまま綴は立ち上がって紙袋をまた近くのソファに置いた。食べ終わった後の方がよかったかなと思ったけど、綴が上機嫌で席に戻ってきたから良しとする。
「食べ終わったら見ますね」
「うん」
 それから程なくして俺は途中でお腹がいっぱいになったけど、残りは全て綴がペロッと食べてしまった。流石俺の嫁、しっかりと計算して作っている。一緒にごちそうさまと言って手を合わせたら空になったお皿をキッチンのシンクに持っていく。水を出して率先して皿洗いを始める。綴は自分がやるって言ったけど、俺としては早くプレゼントを開けて見て欲しかったから料理のお礼ということで譲らなかった。
 ドキドキとした心持で皿洗いを片手間にちらっと綴の方を見る。綴はいそいそとソファに座り紙袋を膝の上に乗せた。水の音にわずかに紙袋から箱を取り出すカサカサとした音が混じる。どうしても気になって急ぎながらもしっかりと皿を洗う。それでも綴はもともとお皿を沢山使うタイプではないし、料理中に使わなくなった器具は全て途中で洗ってしまうから俺が洗うものがそんなに多いわけではないので、これくらいはと意識は綴に向けたまま目線はお皿に戻した。
「タオル?」
 箱を開けたのか綴は不思議そうに呟いた。うわーなにやってんだろうすごく見たい、なんて思いながらも自分からやると言い出したものを途中で止めるわけにはいかないのであと少しあと少しと俺は泡を流していく。
「タオルケット……?」
 そうそう、と思いながら綴はタオルケットしか見ていないだろうに軽く頷いてしまう。
「ぅわあぁ……」
 綴がなにか静かな奇声をあげているのが聞こえる。あれでいて俺の持っているクッションとかも触り心地のいいふわふわしたものを好んで使っていたから、悪い反応ではないんだと思う。気になりすぎてつい顔を上げて綴を見た。綴は感触を確かめるようにタオルケットを頬にあてて目を細め気持ちよさそうにしている。その反応に俺は勝手に満足してまた手元に目線を戻した。
 皿洗いを全て終えたらスポンジを持ち替えてシンクを軽く洗う。しっかりと流して、と水を止めるとこちらに向かってくる足音がした。
「至さん」
 綴に呼ばれて顔を上げるとカウンターを挟んで立ってた綴はタオルケットを頭から被りくるまって笑っていた。
「へへ、ありがとうございます。これすごく手触りよくて好きです」
「ぐっ、かわいい……。急にやめてほんと」
 急な推しの可愛い光景に防御体制に入っていなかった俺は胸を押さえてずるずるとしゃがみ座った。上がった心拍数を落ち着かせるために深呼吸していると、フローリングを歩くてとてとという可愛い音が近づいてくる。止まってから見上げると綴は俺の前にしゃがんだ。
「皿洗い、ありがとうございます」
「ううん。こちらこそいつもご飯ありがとね」
 俺が立てた足の上に置いた右腕に頭を乗せて笑ったら綴もふにゃふにゃっと笑った。しゃがんだことで綴を包んでいるタオルケットがふわっと広がって可愛いという字が頭で踊っている。キッチンでなにやってんだと頭の斜め上で手を振って思考を消散させた。この行為に綴は目をやり首を傾げたが、自分の中で理解できたのかなんでもないふうに言う。
「至さん今日このあとゲームですか?」
「うん? まあその予定だったけど」
 綴の意図が分からず俺は普通に答える。すると綴は立ち上がり腰を折って俺に伺うように口を開いた。
「じゃあ俺とソファでぬくぬくしながら、いかがですか?」
 返事も聞かず綴は布を翻してぱたぱたとキッチンを後にした。俺が考えていたより綴のテンションは上がっているようだ。子供のような仕草とは裏腹にささやかなお誘いをした時の目尻を下げてへにゃっとした笑い方はすごく"可愛く"見えた。
「はあ、だからそういうとこ」
 綴の居なくなったキッチンで俺はため息混じりに小さく呟く。床に手をついて立ち上がり綴の行った方に視線を向けると既にソファに座り背もたれからひょこっと顔を出して振り向いている。俺が断らないと知っていて待っているんだろう。
 本当にそういうところだぞ、と内心思いながら俺は笑って言う。
「よろこんで」

とても素敵な企画に参加させていただき楽しかったです!
当初書く予定のものから随分増えてしまったのですが、
部屋の雰囲気なども想像しながら楽しんで読んでいただけたら幸いです。
最高の至綴ライフを!

 

りとる

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