愛しい幸福論
ただいま、という微かな声は、鍵をかける音にかき消された。丞や左京が聞いたら、『劇団員なんだからもっとハッキリとした発声をうんぬんかんぬん』と説教をしたことだろうが、そんな事を考え付かないほど、至はとにかく疲れ切っていた。
外灯を消して、鍵を靴箱の上にあるトレイに落とし、足を引きずるようにダイニングへ向かう。真っ暗な部屋に明かりを灯せば、物の散乱が目立つことが明らかになる。微かな物音を聞きながら、片付けなければと思いつつも、そこからしばらく足が動かなかった。
ようやく動き出せたのは、そこから十分経った頃だった。コンロに乗せたままの鍋を火にかけながら、ゴミ袋にいらない物をどんどん突っ込んでいく。どうしてこんなにゴミを散らかすのかと、過去の自分に苛立ちを募らせながら、大部分が綺麗になったところでコンロの火を止めた。
シンクに積み重なった皿にも辟易しつつ、紬に貰ったカフェオレボウルにポトフを盛り、帰り際コンビニで買ったクロワッサンと一緒にテーブルに運ぶ。本来なら着替えるべきだが、それも面倒で、せめてジャケットだけは脱ぐ。そこで、仕事鞄を玄関に忘れてきたことを思い出すも、回収する気にはならなかった。
お気に入りのチーズデニッシュも、ソーセージロールも、あいにく売り切れていた。
口から漏れ出た『いただきます』も、帰宅時と同じくらいか細いものだった。スマホに課金カードの番号を入力しながら、二、三日前に自分で作ったポトフのジャガイモを口に入れる。咀嚼。味がしない。キャベツ。前歯でかじる。味を感じない。ニンジン。舌で潰す。味がない。
次第に、柔らかくなってる野菜を噛むのも、温かいスープを飲むのも、億劫になってきた。気持ち悪ささえも感じてきているし、このまま食べ続ければ恐らく、戻してしまうだろう。そもそも、腹が空いてるかも分からない。
「…………ふぅ」
ため息をついた至は、スプーンを下ろした。クロワッサンも、袋を開ける元気すら沸かない。もう食べなくてもいいか、と結論付けようとしたその時。
タン、とエンターキーを叩く音がはっきりと至の耳に届いた。
カフェオレボウルに落としていた視線を上げ、ガサガサと音がする書斎の扉を見つめる。けれどそこが開くまでの時間がもどかしくて、至はスプーンを置いて立ち上がった。
「つづる、」
ノックをして、声をかけて。はい、と少し枯れた返事と一緒に至の愛しい人が顔を出した。随分とくたびれた顔をしているが、実に一週間ぶりの邂逅だ。
「久しぶり、綴」
「っす、ご迷惑かけました」
「いーよ。何もできなくてごめんね」
「いえ、集中させてもらいました」
へにゃ、と微笑んだ綴は、『脚本ができるまで書斎に籠る』とのたまった時と変わらず、愛しいものだった。ほのかに並ぶ無精髭も、見慣れないが可愛らしい。
「できたの?」
「はい、初稿はできたので明日の朝チェック入れてから先方に送ります」
「そかそか。お疲れ様。ご飯は? どうする?」
「あー……そういえば、腹減ったかも」
そう言いながら、腹の虫も一緒に返事をするものだから、至はつい笑ってしまった。こうしてごく自然に口角を上げるのも、一週間ぶりだった。
ポトフなら作ってあるよと至が告げると、ぱちぱち、二回瞬きをされる。意外だと思ったのだろう。それもそうだ。至はデリバリーピザを好み、さんかくおにぎりすらまともに握れなかったのだから、自主的に料理をするだなんて綴にとっては青天の霹靂だろう。
けれど至だって考えているのだ。『同棲』するのだから、綴にばかり負担はかけられないと、臣に教えだって乞いた。千景や真澄には、それこそ先ほどの綴のように青天の霹靂だ、と見られたのも至にとって記憶に新しい。
自分の席に着いた綴に、少し芝居掛かった仕草でポトフを給仕すると、彼も同じように恭しく礼を述べた。そしてそっと手を合わせる。
「いただきます」
「召し上がれ。あ、食いたかったらパンあるよ。綴の好きなソーセージロールなかったから焼きそばパンだけど」
「うーん、とりあえずポトフだけ。パンは明日食べます」
まだ温かいポトフを、両手で持ってそのままスープに口をつける綴。そのあまりにもラーメン屋のワンシーンのような男らしい姿に、至はまたくふくふと笑いを漏らす。
「……至さん」
「んー?」
「これ、味薄くないですか?」
「あ、やっぱり?」
「はい。びっくりするくらい味がしないです。調味料入れました?」
「入れたよ。ただ、こうして徹夜明けの綴に味の濃いもの食べさせられないなーと思いながら作ったらこうなっちゃった」
だから食べるのしんどかったんだよね、と自分の手元にあるカフェオレボウルを指し示す。数十分前までは食事自体がしんどかったが、綴と二人ならこの病人食同然の薄味ポトフも食べきれるかもしれない。
「これ、手加えてもいいですか?」
「ん? いいよ」
「流石に味薄すぎなんで、ルー入れてシチューにしましょ」
「頭いいな。天才か?」
いそいそと立ち上がった綴について、至もキッチンに向かう。そしてキッチンの惨状を目の当たりにした彼へ謝罪した。
「シチュー食べたら片付ける、ごめん」
「いいっすよ、至さんも繁忙期だったでしょ。あ、それ鍋に戻しといてください」
「りょ」
至が鍋に向かっている間に、綴が棚を漁って使いさしのシチューのルーを探し出す。それを再び火にかけられた鍋へ投入されると、みるみると乳白色に染まっていく。優しい香りも立ち込めてきて、至の腹でも虫が鳴いた。どうやら、至もちゃんと空腹だったらしい。
十分に混ざり、味も均等にしたところで再びカフェオレボウルに盛り付け、いそいそと二人でテーブルに向かう。これ、すっかりスープ用の皿だね、と笑い合いながら手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
至の口から出た声は、先程と違って覇気のあるものになっていた。シチューを口に運びながら正面に座る綴を見ると、やたらと幸せそうな顔をしてシチューを頬張っている。
そんな彼に、帰宅前からささくれだっていた心が回復させられていることに気づく。こいつはいつ、回復魔法をかけたんだろうか。
「ね、つづる」
「? なんすか、至さん」
「ありがとね」
「そんな、シチューにしたくらいで」
「そうじゃなくて。俺と住んでくれて、一緒にいてくれて。ありがとう」
あまりにも自然に出た感謝の言葉に、綴がまた瞬きをする。そしてへにゃ、と破顔した。
「俺も、ありがとうございます。一緒に暮らせて幸せです」
「うん、俺も幸せ」
机の上で交わった掌は、暖かくて優しかった。
『恋』よりも『愛』が強い作品になりました。
初めは寄りかかり寄りかかられだった二人も、自然と支え合えるようになっていってくれると嬉しいです。
山梨 ススキ